東洋一の大工事・越後平野の守護神「大河津分水路」について

どうも。悲壮なロマンスストーリーや青春のバラードよりは、人間存在のデカい活動で泣くことの多いちっひーです。プロジェクトXとか結構泣きますね。

さてそんなデカいものが新潟にもあることを知りました。それは「大河津分水路」です。

 

信濃川の氾濫から下流域をまもる分水路

川は、蓋のされていない水路です。それゆえくぼみの体積以上の水が押し寄せれば溢れるのは必然です。

溢れた水は農地を荒らし家を流し、人々の生活に多大な影響をもたらします。総延長日本最大級、流域面積第3位の信濃川が溢れるとなればその被害は想像を超えます。(というか私は生まれてこの方氾濫を経験したことがないので想像さえ難しいのですが)

さらに、越後平野は河川よりも低い高さの土地が多いのが特徴です。天井川ってヤツですね。最初川は周囲の土地より低いが、そのうち運んでくる土砂で川底が浅くなり溢れやすくなります。それを防ぐために堤防を積み上げ、その堤防に対してまた川底が徐々に上がっていき、また堤防を高くする、また川底が高くなる……これを繰り返すうちに堤防の外側の民家があるような土地は、気づけば川底よりも高くなってしまうのです。

そのせいで氾濫が起きれば水はやたら遠くまで溢れ、行き場のない水が引くのにも時間を要するというやっかいな土地です。

 

そのため、かなり昔から「信濃川に流れる水の量を減らそうぜ」という挑戦が始まりました。その始まりは江戸時代まで遡ります。

時系列などの詳細はウィキディアなどを参照して欲しいのですが、ざっくり書きます。

・元号が享保(1716~36年ごろ)の間に江戸幕府に土地のえらい人が分水路建設をお願いする→却下される
・1842年、幕府が測量調査するが巨額の費用や周辺集落の反対で却下。
※この間も洪水は発生
・1870、ようやく工事開始
・1875、工事中止。(技術的問題、水量減少による新潟港の維持ができなくなることが理由)

1896年、「横田切れ」というとてつもない洪水が発生。雑にいうと燕市から新潟市関屋まで浸水した。(三条・燕ICから新潟西ICまでの道中が全部水浸しみたいなものですよね……)これを契機に分水路建設の動きが高まる。

・1909、2回目の工事開始。当時東洋一の工事と呼ばれた。

・1922、とうとう通水。発案から約200年。
・1927、全ての工事完了。
・1931、(旧)可動堰への改修完了
・2003、可動堰の改修開始
・2011、可動堰の改修完了

・現在2032年度までの計画で改修計画進行中。

 

こんな感じです。

 

大河津分水のすごさ

東洋一の工事と呼ばれた大河津分水ですが、どうすごいのでしょうか。

まず、地元の人ならわかると思いますが大河津分水路は日本海に至る出口の寺泊のあたりが山です。普通、川は上流から下流にかけて標高も下がっていきます。しかし大河津分水路は山に向かって川を流すことになります。山を切り崩す必要がありますから、とてつもない工事になります。

(掘削量を減らすため、山のあたりは川幅が狭くなっている)

工事にはのべ1000万人が携わったとされ、工事には当時最新鋭の外国製・国内製の掘削機が用いられました。

 

この分水路は完成以来、とてつもない威力を発揮しています。

記憶にあたらしい昨年(2019)の台風19号の被害。(令和元年度東日本台風)長岡市の日赤の裏あたりの河川敷堤防があと1〜2mというところまで水がきていたのですが、幸いにも下流域に被害はほぼありませんでした。このとき、大河津分水路は計画高水位を超える量の水を流して災害を防ぎました。

要は計画上のフルパワーを超えたマックスパワーで越後平野を守ったということですね。まさに越後平野の守護神です。

 

また、下流域の水量が減ったことでそのエリアの改修工事も進みました。新潟市の白山公園や万代のあたり、新潟県庁などは下流域の流量が減り、土地の造成が行いやすくなったことによる賜物です。

ただ流量が減るということは流れてきて堆積する土砂も減るということなので、信濃川河口では海岸が海から侵食され最大で400mほど後退したそうです。まぁ、あっちが出ればこっちがひっこむのが世の常ですからね。

 

近くにこんなすごいものがあるとは。

大学の時から長岡市にいて今は新潟市にいるのですが、まさかここまでの「人間存在のデカい活動」があるとは思いませんでした。

2019年の台風の際は私も避難の準備を進めるほどの怖さを感じていました。

こんど寺泊や燕に行った時、しっかり見てみたいな、と思います。

 

 

 

 

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